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第一章 再会2

Author: 相沢蒼依
last update publish date: 2026-08-14 11:52:06

 予想していた鋭い追及や冷たい非難は、何も起こらなかった。

 一ノ瀬智臣は、こちらを真正面から見つめる。眼鏡の奥の瞳は相変わらず冷たく澄んでいて、結婚式前に見た見合い写真と何も変わらない。

「とりあえず今日からよろしく頼む、九条湊」

 低く落ち着いた声で、それだけ言った。

(……え?)

 俺は思わず、瞬きを繰り返した。続きを待ったが、智臣はそれ以上何も言わなかった。すぐにデスクに戻り、モニターに向かって指を滑らせ始める。

 正直なところ、思いっきり拍子抜けした。

 復讐されるんじゃないか。逃げ出したオメガをわざわざ自分の秘書に据えて、痛い目にあわせるんじゃないか。

 そんな覚悟を決めていたのに、ただの「今日からよろしく」だけで終わり?

「……あの、社長」

「初仕事だ。資料の整理を頼む」

 智臣は俺の言葉を遮るように、淡々と指示を出した。

「机の上にある三ヶ月分の会議議事録を、重要度順に分類してほしい。期限は今日の17時まで。わからないことがあれば、隣の秘書室にいる井上に聞いてくれ」

 それだけ言うと、再び画面に視線を落としてしまった。それは俺の存在など、完全に業務の一部としてしか見ていないような態度だった。

(……何なんだよ、これ)

 俺は内心で大きく混乱しながら、指定されたデスクに座った。広々とした執務室の隅に用意された秘書用の席は、意外と快適そうだった。最新のPCと、必要な文具もすべて揃っている。

 初めての秘書業務に、肩へ自然と力が入る。

 アルファである智臣の近くにいるというだけで、出会い頭はあれほど体が熱くなったのに、不思議とヒートらしい症状が出ない。胸の奥が少しざわつく程度で、理性はしっかり保たれている。

(たぶん、緊張してるから……かな)

 だからこそずっと警戒していたのに、肝心の症状が出ない。皮肉なことに、過度な緊張が体を抑え込んでいるらしい。

 俺は深呼吸をして、目の前の分厚い資料に取りかかった。

 会議議事録の山は想像以上に膨大で、内容も高度だった。一ノ瀬ライフサイエンスが手掛ける新薬開発プロジェクト、臨床試験の進捗、競合他社との提携交渉……どれも、今まで触れたことのない世界ばかりだった。

 時間は容赦なく過ぎていく。智臣は時折、短い指示を投げた。

「その資料の3ページ目の項目7、赤線を引いておけ」

「はい」

「来週の役員会資料に反映させる内容を、メモするように」

 声は事務的で、感情が全くこもっていない。しかも、俺の顔をまともに見ようともしない。

「議事録の二十三ページ。矛盾している」

「え?」

 慌てて、指摘された書類を読む。

「本当だ、一行だけ数字が違う……」

「修正してくれ」

 大量にある議事録――この全てに目を通していることに、驚きを隠せなかった。彼が指摘しなければ俺のミスになり、失敗したことになる。

(つまり、俺に復讐することに繋がるはずなのに、彼が何もしないなんて……)

 しかも逃げ出した婚約者を、わざわざ自分の側に置く理由がわからない。

 ただの気まぐれか? それとも、もっと長い時間をかけて、俺を追い詰めるつもりなのか?

 そんな違和感が、胸にずっと引っかかっていた。

 お昼少し前に隣の秘書室から、秘書長の井上さんが現れた。 

「九条くん、初めまして。秘書長の井上です。お昼、一緒にどうですか?」

「あ、初めまして。よろしくお願いします」

  こうして井上さんと社食にて、お昼を食べることになったのだが――。

 「井上さん、社長のお昼休憩は、どんな感じなのでしょうか?」 

 俺たちが執務室を出ようとしていても、智臣は仕事の手を止めるような素振りを見せなかった。俺の質問を聞き、井上さんは苦笑いを浮かべる。 

「社長はこちらから声を掛けないと、お昼を忘れてしまうんですよ」

「え?」 

「仕事に集中すると、時間の感覚がなくなるんです。気付けば、夕方なんてことも珍しくありません」

「それじゃあ、体を壊しますよね」

「だから、私が毎日声を掛けているんですが……なかなか聞いていただけなくて」

  見た目以上に、仕事中毒者のようだ。そこで俺は社食でサンドイッチを購入し、執務室に戻って社長のデスクにそれを置いた。 

「……?」 

「井上さんから、お昼を召し上がっていないと伺いました。よろしければ、どうぞ」

 智臣はデスクの隅に置かれたサンドイッチを見てから、俺の顔を見る。そして、またサンドイッチを見た。

「これは?」

「昼食です」

「……私に?」

 眼鏡の奥の瞳が、驚いた感じで見開かれる。俺は真顔のまま、静かに言葉を続けた。

「コーヒー淹れますね」

 一礼して、執務室に置かれたコーヒーメーカーに向かう。

 俺は気付かなかった。サンドイッチを見つめたまま、智臣が小さく眼鏡を押し上げたことを。

 そして、

「……困った」

 と誰にも聞こえない声で呟いたことも。

 15時を回った頃、智臣が少しだけ長い言葉を発した。

「濃い目のコーヒーを頼む。ブラックで」

「……はい」

 俺は立ち上がり、執務室の隅にあるコーヒーメーカーに向かった。背中に智臣の視線を感じた気がして、思わず肩をすくめたが、振り返ると彼はすでにモニターに集中していた。

 熱いコーヒーをカップに注ぎながら、俺は小さく息を吐いた。

 今日一日、ヒートは起きなかった。緊張のおかげか、それとも智臣が俺に対して、何の興味も示さないからか——それはわからない。

 ただ一つ、はっきりしていることがある。これは、まだ始まったばかりだということ。

 一ノ瀬智臣という男が、本気で何を考えているのか。俺をここに置いた真の目的は何か。

 その答えが出るまで、俺はこの違和感を抱えたまま、彼の側で働き続けるしかないらしい。

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